ビデオアートにおける時間性と記憶の探求:哲学およびメディア論の視点から
はじめに
現代アートの多様な表現媒体の中でも、ビデオアートは特に「時間」を扱う芸術形式として重要な位置を占めています。静止画とは異なり、時間軸上に展開する映像は、知覚される時間の流れそのものや、それに付随する記憶、物語、反復といった概念を作品の核とすることができます。ビデオ技術の進化、特にデジタル化は、時間の操作や非線形的な表現の可能性を飛躍的に拡大させました。本稿では、現代ビデオアートにおける時間性と記憶の探求に焦点を当て、それがどのような哲学的背景やメディア論的考察と結びついているのかを、具体的な作品例を交えながら考察します。
ビデオアートにおける時間性の技術的特徴
ビデオアートが時間性を扱う上で、その媒体固有の技術的特徴は不可欠です。従来のフィルムベースの映像と比較して、ビデオ、そしてその後のデジタルビデオは、いくつかの点で決定的な違いを持ちます。
まず、ビデオは編集が比較的容易であり、非線形的な構成を可能にします。フィルムのような物理的な切断や接合を伴わず、テイクの間を瞬時に飛び越えたり、時間軸を自由に前後させたりすることができます。これにより、物語の線形性を破壊し、複数の時間軸を重ね合わせるといった表現が可能となりました。
デジタルビデオ編集ソフトウェアの発展は、さらに高度な時間操作を可能にしました。スローモーション、早送り、逆再生、フリーズフレームといった基本的な操作に加え、異なる時間軸で撮影された映像を重ねるレイヤー機能、意図的なデータ破損によるグリッチ表現、複数画面に異なる映像を同時に表示する多チャンネル・インスタレーションにおける時間同期・非同期など、時間知覚に直接的に働きかける多様な技法が駆使されています。
また、ループ再生はビデオアートにおいて頻繁に用いられる手法です。始まりと終わりが接続された映像は、線形的な時間経過から解放され、永遠に繰り返される「現在」を創出します。これは、特定の瞬間や行為を強調したり、時間からの逸脱を示唆したりする効果を持ちます。
時間性に関する哲学的背景
ビデオアートにおける時間性の探求は、古来より哲学で議論されてきた時間概念と深く結びついています。
アンリ・ベルクソンは、機械的な「空間化された時間」(クロノス)に対し、意識の連続的な流れとしての「持続」(Durée)という概念を提唱しました。ビデオアートが、編集やループによって客観的なクロノスを操作し、見る者の内的な持続や知覚に働きかける時、そこにはベルクソン的な時間の探求が見られます。例えば、極端なスローモーションは、通常知覚できない微細な時間の中にわれわれを留め、その持続そのものを意識させます。
また、聖アウグスティヌスは『告白』の中で、時間は我々の意識の中にのみ存在し、過去は現在の記憶、現在は現在の直観、未来は現在の期待として存在する「現在の三相」であると論じました。ビデオアートが過去の出来事の記録を現在に提示し、それを編集によって再構築する行為は、アウグスティヌスの時間論、特に過去が現在の記憶としてのみ存在するという考え方と響き合います。
ジル・ドゥルーズは、映画における時間と運動の関係を考察し、時間を直接表象する「時間イメージ」の概念を提示しました。ビデオアートの非線形性や断片化された時間は、運動イメージに還元されない時間イメージの可能性をさらに推し進めるものとして捉えることができます。
記憶に関する哲学的・認知的背景
ビデオアートにおける記憶の扱いは、その時間性への介入と不可分です。映像は過去の出来事を記録し、それを現在の時点で再生可能にするメディアです。これは、個人的な記憶、集合的な記憶、あるいは歴史的な記録といった様々な形の記憶を扱いの対象とすることを可能にします。
記憶は単なる過去の記録の再生ではなく、現在の視点から再構築される能動的なプロセスであるという理解は、現代の認知科学や哲学において一般的です。ビデオアートが、記録された映像を編集、断片化、あるいは歪曲して提示する時、それは記憶の不確かさや再構築性を示唆していると言えます。意図的なノイズやグリッチは、記憶の欠落や歪みを視覚的に表現することもあります。
メディア論においては、映像メディアが個人の記憶や集合的な歴史認識に与える影響が議論されてきました。ワルター・ベンヤミンは、機械複製時代の芸術作品が「アウラ」を失う一方で、その普及性によって新たな社会的機能を持つことを論じました。ビデオアートが記憶の外部化された形態として流通する時、それは個人的な経験を共有可能なものとし、集合的な記憶形成に関与する可能性を秘めています。また、ヴォルフガング・エルンストのようなメディア考古学者は、メディア技術そのものがどのように時間や記憶の概念を形成してきたのかを掘り下げています。
具体的な作品例に見る時間と記憶の探求
- ナム・ジュン・パイク: 彼は初期のビデオ作品から、テレビというメディアの線形的な時間構造を解体しようと試みました。『Global Groove』(1973) のような作品では、複数の映像ソースをモンタージュし、時間と空間を超えた情報の洪水を提示しました。これは、メディア技術が時間知覚や情報処理にもたらす変化を先駆的に示唆しています。
- ビル・ヴィオラ: ヴィオラは、人間の普遍的な感情や存在に関わるテーマを扱う際に、しばしば極端なスローモーションを使用します。『The Passions』シリーズ(2000年代初頭)では、人間の表情や仕草の微細な変化を長時間にわたって引き延ばすことで、一瞬の中に凝縮された感情の持続や、時間そのものの重みを表現しています。これは、ベルクソン的な持続や、生と死、変容といった深遠な時間概念への瞑想を促します。彼はまた、水や炎といった時間性の象徴的な要素を多用し、再生と消滅のサイクルを描く中で記憶や過去の反響を探求しています。
- スティーブ・マックイーン: マックイーンの作品は、しばしば身体と時間の関係、あるいは歴史的記憶に焦点を当てています。『Static』(1995) では、自由の女神像の周囲をヘリコプターで旋回しながら撮影した映像を断続的な編集で提示し、モニュメントという静的な存在に対する時間的な視点の重なりと不安定さを描きました。また、『Deadpan』(1997) は、バスター・キートンへのオマージュとして、身体が受ける衝撃とその後の静止した状態の対比を通して、時間の経過と身体の脆さ、そしてユーモアの中に潜む痛みを表現しています。彼の作品は、しばしば個人的な記憶と集合的な歴史、特に奴隷制度のような暴力的な過去の痕跡が現在の身体や空間にどのように刻印されているのかを探る上で、時間を操作する映像技法を効果的に用いています。
- ピピロッティ・リスト: リストの作品は、しばしば身体性、ジェンダー、自然といったテーマを扱いながら、ループや多チャンネル・インスタレーションによって独特の時間空間を生み出します。床や天井に投影された映像の中を観客が歩き回るような作品は、線形的な鑑賞体験から逸脱し、身体が空間と時間の中で漂うような感覚を呼び起こします。彼女の作品における反復と断片化は、意識の流れや無意識的な記憶の断片を視覚化するかのようです。
これらのアーティストは、それぞれ異なるアプローチを取りながらも、ビデオという媒体の特性を最大限に活かし、時間や記憶という複雑な概念を視覚的に、あるいは体験的に表現しています。
結論
現代ビデオアートにおける時間性と記憶の探求は、単に映像の技術的な操作に留まるものではありません。それは、人間の時間知覚の性質、記憶の再構築性、メディアと意識の関係、そして歴史や経験の記録と継承といった、深遠な哲学的・認知的問いと密接に結びついています。
ベルクソンの持続、アウグスティヌスの時間の三相、そして現代のメディア論や認知科学の知見は、ビデオアート作品を読み解く上で重要な文脈を提供します。著名なアーティストたちが、スローモーション、ループ、非線形編集、多チャンネル・インスタレーションといった技法を駆使して生み出す時間空間は、これらの思想的・科学的考察を具体的なかたちで体験させ、われわれ自身の時間や記憶に対する認識を問い直す機会を与えてくれます。
今後のビデオアートは、VR/ARといった没入型技術の進化により、時間と記憶の体験をさらに複雑かつ個人的なものに変えていく可能性があります。このようなメディア技術の最前線で展開される時間・記憶の探求は、哲学、メディア論、認知科学といった隣接分野との対話を深めながら、今後も現代アートの重要な一角を担っていくことでしょう。
参考文献としては、ベルクソンの『物質と記憶』、アウグスティヌスの『告白』、ドゥルーズの『シネマ』、ベンヤミンの『複製技術時代の芸術作品』などが、ビデオアートにおける時間と記憶の考察に示唆を与えます。また、ビデオアート史やメディア論に関する専門書を参照することで、より深い理解が得られるでしょう。