レディメイドとオブジェの地位:ものと価値の哲学・記号論的視点から
レディメイド概念の誕生とその問い
現代アートにおける最も根源的な問いの一つを提起した概念に、「レディメイド」があります。これは、アーティストが自ら制作するのではなく、既存の既製品、すなわち「すでにできているもの(ready-made)」を選び出し、それをアート作品として提示するという行為です。この単純に見える行為は、20世紀初頭、マルセル・デュシャンによって導入された際、当時の芸術の概念を根底から揺るがし、その後の現代アートの方向性を決定づけるほどの衝撃を与えました。
レディメイドは単なる技法やスタイルの話に留まりません。それは、アートとは何か、オリジナリティとは何か、作者の役割とは何か、そして私たちの身の回りにある「もの」が持つ意味や価値とは何か、といった多岐にわたる哲学的、記号論的な問いを内包しています。本稿では、レディメイド概念が持つ技法的な特徴と、その背景にある思想的な文脈、特に「もの」の哲学や価値論、記号論の視点から、その意義を深く掘り下げていきます。
マルセル・デュシャンの挑戦:レディメイドの起源
レディメイドの概念は、フランス生まれの芸術家マルセル・デュシャン(Marcel Duchamp, 1887-1968)によって初めて本格的に導入されました。1913年に「自転車の車輪(Bicycle Wheel)」、1914年に「瓶乾燥器(Bottle Rack)」、そして最も有名な1917年の「泉(Fountain)」など、彼は既製のオブジェを買い求め、署名(あるいはそれに類する行為)を施すことで、それらをアート作品として提示しました。
これらの行為は、当時の美術界の常識から大きく逸脱していました。伝統的な美術作品は、作家の熟練した技術と創造性によって「制作」されるものであり、そこに独自の「手仕事」や「タッチ」が不可欠であると考えられていたからです。しかし、デュシャンのレディメイドは、手仕事や技術をほとんど介在させず、既存の「もの」を「選択」し、「提示」するという行為そのものに重点を置きました。これは、芸術の価値が「制作」や「技術」にあるのではなく、「アイディア」や「概念」にあることを示唆するものであり、後のコンセプチュアル・アートの萌芽とも見なされています。
レディメイドにおける「もの」の地位転換
レディメイドが提起する核心的な問いの一つは、「もの」、特に日常的なオブジェの地位に関するものです。通常、私たちの身の回りにある日用品は、特定の機能を持つ道具として、あるいは単なる消費の対象として扱われます。それらは個人的な感情や社会的な文脈とは結びつきながらも、それ自体が特別な意味や価値を持つ存在として意識されることは稀です。
しかし、デュシャンが便器(「泉」)をギャラリーに持ち込み、それを《R. Mutt》という署名で提示したとき、そのオブジェは突然、その日常的な機能や文脈から切り離され、新たな「アート作品」という文脈に置かれました。ここで重要なのは、オブジェそのものが物理的に変化したわけではない、という点です。変化したのは、そのオブジェが置かれた文脈と、それを見る私たちの視点です。
この現象は、「もの」が単なる物理的な存在や機能的な道具ではなく、それが置かれる文脈や、それを見る人間の意識、そしてそれが結びつく記号体系によってその意味や価値が大きく変わりうることを示しています。記号論的に見れば、レディメイドは、日常的な「もの」という記号が、アートという新たなコードシステムに組み込まれることで、そのコードが持つ意味作用や価値体系を変容させるプロセスと言えます。
価値論と経済学的な視点
レディメイドはまた、芸術作品の価値とは何か、という問いも投げかけます。伝統的な絵画や彫刻の価値は、しばしば作家の技術、希少性、歴史的意義、そして市場での評価によって決まります。そこには、作家の労働や創造性が形になったものとして、ある種の「使用価値」(鑑賞価値)と「交換価値」(市場価格)が想定されます。
レディメイドの場合、そのオブジェ自体の使用価値は日常的なものと変わりません(便器は依然として便器としての機能を持ちうる)。しかし、それをアート作品として提示することで、それは全く異なる交換価値を持つことになります。デュシャンの「泉」のオリジナルは失われたとされていますが、レプリカや関連資料は現在、非常に高い価値を持っています。これは、作品の価値が、オブジェそのものの物理的な特性や制作技術ではなく、そのオブジェが持つ「概念」や「アイディア」、そしてそれがアート史に与えた影響、すなわち「文脈」によって決定されることを示しています。
この視点は、ポストモダンの思想、特にジャン・ボードリヤールのシミュラークル論などとも間接的に響き合う部分があります。彼の議論では、現代社会においては、ものの価値がその「使用価値」や「交換価値」から切り離され、記号としての「象徴価値」や「シミュレーション」によって規定される側面が強調されます。レディメイドは、まさに日常的なオブジェの象徴価値や文脈的価値を剥き出しにし、アートという特殊な領域でそれを再構築する試みとも解釈できるでしょう。
デュシャン以降の展開とレディメイドの影響
レディメイドの概念は、デュシャン以降の様々な芸術運動や作家に多大な影響を与えました。ネオダダのロバート・ラウシェンバーグは、ガラクタや日常品を組み合わせた「コンバイン」と呼ばれる作品を制作し、レディメイドの考え方を拡張しました。ミニマリズムにおいては、ソル・ルウィットなどがモジュール化された工業製品に近い形態や素材を用い、オブジェそのものの即物性や物理的な存在を強調しました。
最も直接的な影響を受けたのは、コンセプチュアル・アートです。ソル・ルウィットは「コンセプチュアル・アートでは、アイディアまたはコンセプトが作品の最も重要な側面である」と述べましたが、これはデュシャンのレディメイドが示唆した「アイディアこそがアートである」という考えを継承するものです。ジョセフ・コスースの《一つまたは三つの椅子》のように、物理的な椅子、椅子の写真、椅子の定義という三つの形態を通じて「椅子」という概念を探求する作品は、レディメイドが「もの」の物理性から概念へと焦点を移したことの直接的な応用と言えます。
また、1980年代以降のアプロプリエーション・アートも、レディメイドの考え方の延長線上に位置づけられます。シェリー・ Levineが有名な写真家の作品を再撮影して自身の作品として提示したように、既存のイメージやオブジェクトを借用し、文脈を変えて提示することで、オリジナル性や作者性、資本主義社会におけるイメージの流通といった問題を提起します。これは、レディメイドが日常的オブジェの文脈を転換させたように、既存の文化的記号やイメージの文脈を操作する試みと言えます。
まとめ:レディメイドが現代アートに残したもの
レディメイドは単なる歴史的な技法にとどまらず、現代アートの根幹に関わる多角的な問いを私たちに投げかけ続けています。それは、アートの定義を「制作」から「選択」と「概念」へと転換させただけでなく、私たちの身の回りにある日常的な「もの」が持つ潜在的な意味や価値、そしてそれらが置かれる文脈の重要性を浮き彫りにしました。
「もの」の哲学においては、レディメイドは、道具的存在としてしか見られなかったオブジェが、アートという特異な文脈において独自の存在感を獲得するプロセスとして解釈できます。記号論においては、それは記号のコード転換と意味作用の変容を示す具体例であり、価値論においては、アート作品の価値が物理性や技術から概念や文脈へと移行する様を示しています。
レディメイドは、私たちの「もの」の見方、アートの見方、そして世界の見方そのものに変革を迫りました。そしてその影響は、コンセプチュアル・アート、アプロプリエーション・アート、さらには今日のデジタルアートや社会参加型アートなど、多様な形で現代アートの中に息づいています。レディメイドを理解することは、現代アートが何を問いかけ、どのように世界と関わろうとしているのかを理解するための重要な鍵となるのです。