パフォーマンスアートにおける身体と時間:現象学および政治哲学の視点から
パフォーマンスアートの特異性と現代思想
パフォーマンスアートは、20世紀後半以降の現代アートにおいて重要な位置を占める表現形式です。絵画や彫刻といった伝統的な造形芸術とは異なり、アーティスト自身の身体や行為、そして時間や空間を主要な要素として用いる点にその特異性があります。この形式は、単に視覚的な対象を制作するのではなく、生起する出来事そのものを作品と見なし、観客の体験や関与を深く組み込むことが特徴です。
パフォーマンスアートが探求するテーマは多岐にわたりますが、特に身体と時間という要素は、それが展開される「場」と共に、このジャンルの核心をなしています。これらの要素は、単なる素材や形式として扱われるのではなく、人間の存在、知覚、関係性、そして社会構造といった、より根源的な問題と深く結びついています。本稿では、パフォーマンスアートにおける身体と時間の扱いが、現象学的な視点や政治哲学的な視点からどのように解釈できるのかを考察し、その現代アートにおける文脈を明らかにします。
身体の現前性と思考:現象学の視点
パフォーマンスアートにおいて、アーティストの「生きた身体(Living Body)」は、作品の最も直接的で不可欠な構成要素となります。これは、絵具や粘土といった外部の素材を介するのではなく、身体そのものが表現の媒体であり、同時に作品そのものであることを意味します。このような身体の扱いを考察する上で、モーリス・メルロ=ポンティを中心とする現象学の視点は非常に有効です。
メルロ=ポンティは、身体を単なる物理的な物体ではなく、世界を知覚し、世界に関与する主体としての「身体‐主体(corps propre)」として捉えました。私たちは、身体を通して世界を経験し、その身体の動きや感覚が、私たちの意識や思考と不可分に結びついています。パフォーマンスアーティストは、自身の身体を用いることで、このような「身体‐主体」としての経験、すなわち身体を通した知覚や世界との関わりを直接的に提示します。彼らの身体の動き、表情、声、そして身体が晒される状況そのものが、観客の知覚に直接働きかけ、身体的な共感や反感、戸惑いといった反応を引き起こします。
例えば、マリーナ・アブラモヴィッチの一連の作品、特に観客との間に特定のルールを設けて身体的な極限状態を探求する作品では、アーティスト自身の身体が、脆弱さ、耐久性、精神性といった人間の本質を問い直す媒体となります。観客は、アーティストの身体を通して、自己の身体性や限界、他者との関係性について現象学的な問いを投げかけられることになります。また、ヨーゼフ・ボイスが行った様々なアクション(パフォーマンス)において、彼の身体や纏うフェルトや蜂蜜といった素材は、単なるシンボルとしてではなく、歴史や集合的記憶、そして治癒や再生といった思想を体現する「生きた」要素として機能しました。
パフォーマンスにおける身体は、美術史における「身体の表象」(絵画や彫刻における身体描写)とは根本的に異なります。それは「現前(Presence)」そのものであり、時間と共に変化し、消耗し、観客と同じ空間を共有します。この現前性は、単なる視覚的な情報以上の、身体的な共鳴や、共に時間を過ごすことによる共体験を生み出し、作品の強度を高めていると言えます。
時間の不可逆性と痕跡:メディア論・哲学の視点
パフォーマンスアートは時間の中で展開される芸術です。始まりがあり、終わりがある。この「時間性」は、絵画や彫刻のような恒常的なオブジェクトとは異なる、パフォーマンスの重要な特徴です。時間はパフォーマンスを規定する枠組みであると同時に、探求されるテーマでもあります。
パフォーマンスにおける時間は、不可逆的であり、その場限りです。過去のパフォーマンスは記録媒体(写真、映像、テキスト)を通してのみアクセス可能であり、オリジナルの体験は二度と再現されません。この「一回性」は、写真や映像といった複製可能なメディアに対する、パフォーマンスのユニークな性質を際立たせます。ペギー・フェランは、パフォーマンスの存在論的な特徴としてその「不可視性」、すなわち記録によっては決して完全に捉えきれない側面を指摘しました。この不可視性は、パフォーマンスが常に「今ここ」に存在し、時間と共に消滅していく儚さ、そして生起する出来事の偶発性や非制御性を強調します。
また、パフォーマンスにおける時間は、線形的なものだけでなく、循環的な時間、断片化された時間、あるいは極端に引き伸ばされた時間として提示されることもあります。例えば、特定の行為を長時間反復するような作品では、時間の経過そのものが作品の強度や意味を形成します。クリス・バーデンの「Shoot」のように、特定の瞬間における極端な行為は、その短い時間の中に強烈な暴力性や脆弱性を凝縮させます。
このような時間の扱いは、ベルクソンの持続(durée)や、ハイデガーの現存在の時間性といった哲学的な議論とも接続可能です。また、写真や映像、デジタルメディアといった様々な記録・伝達メディアの登場と発展は、パフォーマンスの「痕跡」や「アーカイブ」のあり方を巡る議論を生み出し、情報化社会における経験や記憶のあり方、そしてアートの価値や流通形態そのものに関する哲学的・メディア論的な問いを提起しています。パフォーマンスのアーカイブを巡る議論は、フーコーのアーカイブ論やデリダの痕跡論といったポスト構造主義的な思想とも深く関わっています。
身体と時間の政治性:政治哲学の視点
パフォーマンスにおける身体と時間は、しばしば深い政治的な意味合いを帯びます。身体は、社会規範や権力によって規律され、管理される対象であると同時に、抵抗や解放の場でもあります。パフォーマンスアーティストは、自身の身体を社会的な期待や抑圧から解放したり、あるいは意図的に社会的な規範に挑戦したりすることで、身体の政治性を露呈させます。ミシェル・フーコーの身体論は、権力がどのように身体を対象とし、規律訓練するのかを分析しましたが、パフォーマンスはしばコーの洞察を実践的に、あるいは批判的に探求する場となり得ます。
例えば、ジェンダーやセクシュアリティ、人種や階級といったアイデンティティに関わるパフォーマンスは、これらの身体が社会的にどのように位置づけられ、扱われているのかを可視化し、既存の権力構造に対する異議申し立てを行います。キャロリー・シュニーマンのフェミニズム的な身体を用いたパフォーマンスや、ゲリラ・ガールズのような匿名によるパフォーマンスは、身体、ジェンダー、アート界の構造といった問題を政治的に提起しました。
また、パフォーマンスが公共空間で行われる場合、それは「場所」の政治性とも結びつきます。都市空間、特定の歴史的な場所、政治的な集会の場などで行われるパフォーマンスは、その場所が持つ社会的な意味合いや権力関係を問い直し、空間の再解釈や一時的な占有を行います。ヴィト・アコンチが公共の場で通行人を追跡した作品のように、アーティストの行為は公共空間における個人の自由や監視といった問題を浮き彫りにします。
パフォーマンスにおける時間は、政治的な抵抗や介入の手段ともなり得ます。日常的な時間や生産性の要求から逸脱した、無為な時間や非生産的な行為は、資本主義的な時間観や効率性に対する批判となり得ます。また、特定の歴史的な出来事や社会的な記憶に焦点を当てたパフォーマンスは、過去と現在の時間を交錯させ、歴史の再解釈や忘却に対する抵抗を試みます。
まとめと今後の展望
パフォーマンスアートは、身体、時間、そしてそれらが展開される空間を駆使することで、人間の存在、知覚、関係性、社会構造といった現代における根本的な問いを探求する力強い媒体です。現象学的な視点からは、生きた身体の現前性や時間意識がどのように作品の意味や観客の体験を形成するのかを深く考察することができます。一方、政治哲学的な視点からは、身体や時間がどのように社会的な規範、権力、抵抗と結びつき、政治的なメッセージや社会批判を可能にするのかを分析することができます。
著名なアーティストたちがこれらの要素を巧みに組み合わせ、自身の作品を通じて現象学的、政治哲学的な洞察を具現化してきました。彼らの実践は、理論的な議論に具体的なイメージを与え、観客に深い内省や社会に対する批判的な眼差しを促します。
今後のパフォーマンスアートは、テクノロジーの進化(VR/AR、オンラインパフォーマンスなど)やグローバルな社会変動(環境問題、移民、パンデミックなど)といった新たな文脈の中で、身体と時間の概念をどのように再定義し、探求していくのでしょうか。そして、それらはどのような新しい現象学的、政治哲学的な問いを私たちに投げかけるのでしょうか。パフォーマンスアートの探求は、現代社会の複雑性と、人間存在の根源に迫り続けるでしょう。
関連する思想家としては、上記に加えてジュディス・バトラー(パフォーマティヴィティ)、ジョルジョ・アガンベン(ホモ・サケル、例外状態)、あるいはアリストテレス(ゾーオン・ポリティコンとしての人間)などが、パフォーマンスの身体性や政治性を考察する上で示唆を与え得るでしょう。また、エリカ・フィッシャー=リヒテによるパフォーマンス論は、この分野の理解に不可欠な文献の一つと言えます。