現代アートにおけるアーカイブの実践:フーコーとデリダの視点から
現代アートと「アーカイブ」の文脈
現代アートにおいて、「アーカイブ」という概念や実践は、単なる資料の保管や記録の整理を超えた、重要な表現手法および批評的アプローチとして位置づけられています。これは、作品そのものが物理的なオブジェクトであることに限定されず、プロセス、概念、時間、あるいは非物質的な情報へと関心を広げてきた現代アートの歴史的流れと深く関連しています。アーティストは、個人的な記憶、歴史的記録、あるいは社会的なデータといった多様な「アーカイブ」された情報を収集、整理、再構築し、展示することで、新たな意味や問いを生み出しています。
この現代アートにおけるアーカイブの実践は、単なる技術的な手法や形式的な特徴に留まるものではありません。そこには、記憶、歴史、権力、存在、そして未来といった、現代思想が扱う根源的な問いが深く織り込まれています。特に、ミシェル・フーコーの「アルシーヴ(アーカイブ)」概念や、ジャック・デリダの「アーカイヴの熱」における議論は、アーティストたちの実践に理論的な視座を提供し、あるいは彼らの作品を通して具体的な問いとして顕在化しています。
本稿では、現代アートにおけるアーカイブの実践が、どのような技法や形式をとりうるのかを概観し、それがフーコーとデリダの思想といかに結びついているのかを詳細に掘り下げます。そして、具体的なアーティストの作品例を通して、アーカイブの実践が現代アートにおいて持つ多層的な意味と文脈を明らかにすることを目的とします。
アーカイブ実践の多様な形式と特徴
現代アートにおけるアーカイブの実践は多岐にわたりますが、いくつかの代表的な形式や特徴を挙げることができます。
- 物理的アーカイブの収集・再構築: 古い写真、手紙、遺品、資料などを収集し、インスタレーションや映像作品として提示する手法です。個人的な記憶や家族史、あるいは失われたコミュニティの記録などを扱い、時間、記憶、アイデンティティといったテーマを探求します。
- デジタルアーカイブの活用: インターネット上の情報、ソーシャルメディアのデータ、デジタル化された歴史資料などを素材として用います。データ収集、視覚化、あるいはアルゴリズムによる再編成といった手法を取り、情報化社会における記憶、監視、プライバシー、あるいは膨大な情報の海における意味生成といった問題を提起します。
- パフォーマンス・アートにおけるアーカイブ: パフォーマンスそのものは一過性のものであるため、そのドキュメンテーション(写真、映像、テキスト記録)が重要な「アーカイブ」となります。しかし、さらに、パフォーマンス自体がアーカイブ化のプロセスを主題としたり、観客の記憶や身体感覚を「アーカイブ」の場としたりする試みも見られます。
- ドキュメンテーションと作品の境界: 作品そのものが、ある出来事やプロセスのドキュメンテーションとして提示される場合です。リサーチに基づく作品、社会的な介入を記録した作品などがこれにあたります。ドキュメンテーションが単なる記録ではなく、それ自体が批評的な「作品」となることで、アーカイブの機能や権力性が問われます。
- 制度的アーカイブへの介入: 美術館、図書館、公文書館といった既存のアーカイブ制度に介入したり、そのあり方を批判的に考察したりする作品です。アーカイブがいかに歴史を「選び」、何を「忘却」するのか、その権力構造に光を当てます。
これらの実践は、アーカイブを単なる「過去の記録」としてではなく、現在に影響を与え、未来を構築する可能性を持つ「活動」や「場」として捉えている点に共通の特徴が見られます。
フーコーのアルシーヴと権力
ミシェル・フーコーの著作における「アルシーヴ(アーカイブ)」概念は、現代アートにおけるアーカイブ実践に強い影響を与えています。フーコーにとって、アルシーヴは単なる過去の記録が集められた場所ではありません。それは、特定の時代において「語られうる言説」や「知として認められるもの」を規定する規則の総体であり、見えない権力の網の目として機能するものです。
フーコーは、『言葉と物』や『知の考古学』において、ある時代の言説空間を可能にしている無意識的な規則やシステムとしてのアルシーヴを分析しました。これは、歴史的な事実や出来事がどのように記録・分類され、どのような言説が可能になるか、あるいは不可能になるかを決定づける構造です。アルシーヴは、ある種の知を構築すると同時に、それ以外の可能性を排除する力を持っています。
現代アーティストがアーカイブされた資料(公的記録、メディア報道、個人的ファイルなど)を扱う際、彼らは単に情報を参照するだけでなく、このフーコー的な意味でのアルシーヴの権力性を意識することがあります。誰が、何を、どのような文脈でアーカイブしたのか? そこにはどのような偏りや欠落があるのか? アーティストは、既存のアルシーヴを批判的に読み解き、その背後にある権力関係を露呈させたり、あるいは排除された声や忘れられた歴史を掘り起こしたりすることで、作品を制作します。
例えば、南アフリカのアパルトヘイト時代の公文書やメディア報道を扱い、公的な記録がいかに現実の一部を切り取り、隠蔽したかを明らかにするアーティストの作品は、フーコーのアルシーヴ概念の実践的な探求と言えるでしょう。また、特定の専門分野(医学、精神医学など)のアルシーヴを分析し、そこから生まれる知が人間をどのように分類し、管理してきたかを問う作品も同様です。
フーコーのアルシーヴ概念は、アーカイブを「中立的な記録庫」ではなく、「知と権力が交差する動的な場」として捉える視点を提供し、現代アートにおけるアーカイブ実践に批評的な深みを与えています。
デリダのアーカイヴ論と痕跡、不可能性
ジャック・デリダは、『アーカイヴの熱』において、アーカイブをめぐるより根源的な問いを投げかけました。デリダは、人間には記録したい、残したいという衝動(アーカイヴ衝動)があると同時に、それを破壊したい、忘れたいという死の欲動も存在すると指摘します。アーカイブは、この相反する衝動の間の緊張関係の中にあります。
デリダにとって、アーカイブは常に不完全で、不可能なものです。完全な過去を完全に記録し、保存することは原理的にできません。アーカイブは常に選択と排除、変形を伴います。また、アーカイブは未来を志向しています。それは未来の誰かに読まれ、解釈されることを期待して記録されます。しかし、その未来の読み方が記録者の意図通りである保証はありません。むしろ、アーカイブは未来によって常に再解釈され、意味を変容させる可能性を秘めています。
デリダはまた、アーカイブを「痕跡(trace)」として捉えます。痕跡は、そこにかつて何かがあったことを示唆しますが、その「何か」そのものを完全に捉えることはできません。アーカイブは、過去の出来事の痕跡であり、それは同時に未来への開かれた可能性の痕跡でもあります。
現代アーティストのアーカイブ実践の中には、このデリダ的なアーカイブの不可能性や不完全性に焦点を当てるものがあります。完璧な記録の試みが必然的に失敗に終わる様を描写したり、アーカイブの隙間や欠落部分を強調したりする作品です。クリスチャン・ボルタンスキーの作品は、このデリダ的な視点と深く響き合います。彼が収集した無数の古い写真や遺品は、個々の人物の存在を完全に捉えることはできず、むしろ不在や死を強烈に感じさせます。膨大な量として提示されるアーカイブは、全体像を把握することの不可能性、記憶の儚さ、そして死後の「痕跡」という問題を浮き彫りにします。
また、デジタル・メディアにおけるアーカイブは、デリダの議論を新たな文脈で展開させます。デジタルデータは複製が容易で、物理的な劣化からは解放されるかのように見えますが、フォーマットの陳腐化、データの喪失、サーバーの停止といった新たな種類の「不可能性」や「痕跡」の問題を生じさせます。ネットアーティストが、失われゆくウェブサイトのアーカイブを作成したり、破損したデジタルデータを扱ったりする作品は、デジタル時代のアーカイブの熱と不可能性を探求しています。
デリダのアーカイヴ論は、アーカイブを「存在と不在」、「記憶と忘却」、「生と死」、「過去と未来」といった二項対立の間を揺れ動く、常に不安定で、しかし故にこそ創造的な可能性を秘めた場として捉える視点を提供します。
具体的な作品例に見るアーカイブの実践と思想の交差
クリスチャン・ボルタンスキーは、個人的な写真や衣服、電球などを大量に用いたインスタレーションで知られています。彼の作品は、匿名の個人たちの痕跡をアーカイブ化することで、記憶、死、不在、そしてホロコーストのような集合的な悲劇を想起させます。彼のアーカイブは、特定の個人を完全に記録することの不可能性を示唆すると同時に、失われた声に耳を傾けようとする強い衝動(アーカイヴの熱)を観客に呼び起こします。これは、デリダ的な「痕跡」や「不可能性」の議論と深く関連しています。また、大量のデータとして提示される記録は、個人の尊厳と匿名化されたデータの間の緊張を問い、フーコー的な「管理される生」といった問題とも接続しうるでしょう。
アピチャッポン・ウィーラセタクン監督の映画作品も、広義のアーカイブ実践として捉えられます。彼は自身の個人的な記憶、タイの歴史、神話、夢などを織り交ぜ、非線形的な物語として提示します。特に、過去の出来事の記録(アーカイブ)がどのように不確かで、複数の解釈を許容するものであるかを示唆する彼のスタイルは、デリダ的なアーカイブの不安定さや、語りうる歴史がどのように構築されるかというフーコー的な問いと共鳴します。映画というメディア自体が、時間と記憶を記録し、再構築するアーカイブ装置であるという視点も含まれています。
現代アートにおけるアーカイブ実践は、これらの例に限らず、様々なアーティストによって多様な形で展開されています。例えば、社会運動の記録を収集・展示することで、その運動の記憶を後世に伝えようとする試み、あるいは、特定の場所の歴史や変遷に関する資料をリサーチし、作品として提示することで、その場所の多層的な記憶を呼び起こすランド・アートやサイトスペシフィック・アートなども含まれます。
現代社会におけるアーカイブ実践の意義
情報化社会、デジタル化の進展、そして膨大なデータの生成・蓄積といった現代状況において、アーカイブの実践は新たな意味を持ちつつあります。データが容易に複製・流通し、同時に容易に失われたり改変されたりする可能性を孕む中で、何をどのように記録し、保存し、共有するのかという問いは、個人の記憶や社会の歴史だけでなく、監視、プライバシー、データ倫理といった喫緊の課題とも結びついています。
現代アーティストによるアーカイブ実践は、こうした状況に対する批評的な応答でもあります。彼らは、既存のアーカイブ制度やデジタル化された情報空間の権力構造を問い直し、あるいは、個人的な記憶や忘れ去られた記録に光を当てることで、見過ごされがちな側面や代替的な歴史の語り方を提示します。
フーコーとデリダの思想は、このような現代のアーカイブ実践を深く理解するための重要なフレームワークを提供します。アーカイブが単なる「過去の箱」ではなく、知と権力が交差する動的な場であり、常に不完全で、しかし未来への開かれた可能性を秘めた痕跡であるという視点は、現代社会における情報の氾濫や記憶の変容といった現象を読み解く上で示唆に富んでいます。
結論:アーカイブ実践に見る現代アートの多層性
現代アートにおけるアーカイブの実践は、単に記録資料を用いた作品制作という技法的な側面に留まるものではありません。それは、記憶、歴史、権力、存在、そして未来といった根源的な問いに対するアーティストの応答であり、哲学や思想との対話を通じて深められる営みです。
フーコーのアルシーヴ概念が、知と権力が絡み合う構造としてのアーカイブに光を当てる一方、デリダのアーカイヴ論は、アーカイブの不可能性や痕跡としての性質、そして未来への開かれを強調します。これらの思想は、現代アーティストがアーカイブされた資料を収集、整理、再構築し、提示するプロセスにおいて、批評的な視点や多層的な意味合いを付与することを可能にしています。
クリスチャン・ボルタンスキーの作品が示すような、個人的なアーカイブを通じた記憶と死の探求、あるいはアピチャッポン・ウィーラセタクンの映画に見られる、歴史と記憶の曖昧さの表現など、具体的な作品例は、思想と実践がいかに緊密に結びついているかを示しています。
現代社会においてアーカイブの実践がますます重要になる中で、現代アートにおけるアーカイブ実践は、単なる技術的な挑戦ではなく、私たちが過去と現在、そして未来との関係をどのように構築していくかという問いを、批評的かつ創造的な方法で探求し続けていると言えるでしょう。この探求は、現代アートが持つ思想的な深みと、現代社会に対する鋭敏な眼差しを改めて私たちに示しています。
関連文献
- フーコー, ミシェル. (1969/1991). 知の考古学 (石田英敬・前田英樹訳). 新潮社. (原著: L'Archéologie du savoir)
- デリダ, ジャック. (1995/2008). アーカイヴの熱: フロイト的印象 (津崎良典訳). 平凡社. (原著: Mal d'Archive: Une Impression Freudienne)
- Foster, Hal. (2004). An Archival Impulse. October, 110, 3-22.
- テイラー, ダイアナ. (2003/2015). パフォーマンス (石原雅子・岩城京子・中村薫訳). 森話社. (原著: The Archive and the Repertoire: Performing Cultural Memory in the Americas)
本記事は、特定の文献の網羅的なリストではなく、主題に関連性の深い著作の一部を挙げたものです。