現代アートにおける身体の探求:現象学とパフォーマンス論の視点から
現代アートにおける身体の重要性
現代アートにおいて、身体は単なる主題や表現媒体を超え、作品そのもの、あるいは制作行為や鑑賞体験の中心的な要素として位置づけられることが多くなっています。20世紀後半以降、特にパフォーマンスアートやインスタレーションの発展に伴い、身体は物質としてのオブジェクトと同等、あるいはそれ以上の意味を持つようになりました。本稿では、現代アートにおける身体の多様な探求を、特に現象学とパフォーマンス論という二つの主要な思想的視点から読み解き、その「文脈」を明らかにします。
身体表現の変遷と技法
身体が現代アートにおいて重要視されるようになった背景には、モダニズム美術における視覚中心主義や、キャンバス・彫刻台といった伝統的なフォーマットからの解放があります。ミニマリズムが知覚体験を重視し始めた流れを受け、アーティストたちは作品を固定された物質から、時間や空間の中で展開される出来事へと変容させました。
パフォーマンスアートと身体
パフォーマンスアートは、身体を主要な素材または媒体とする代表的なジャンルです。アーティスト自身の身体を用いた行為は、彫刻や絵画のような物質的な成果物よりも、プロセスや体験そのものを重視します。初期のハプニングやフルクサスの活動を経て、パフォーマンスアートは1970年代以降、自己のアイデンティティ、社会規範、政治的抑圧など、様々なテーマを探求する手段となりました。
- マリーナ・アブラモヴィッチの作品は、身体の極限状態や観客との関係性を探ることで知られます。例えば、「リズム0」(1974年)では、身体をオブジェクトとし、観客に72の異なる道具(バラ、ナイフ、拳銃など)を用いて自由に干渉することを許容しました。これは、身体の脆弱性と社会的な相互作用における暴力性を浮き彫りにします。
- クリス・バーデンの初期の作品群(例:「シュート」、1971年)は、身体の痛みや危険を伴う行為を通じて、自己の限界や制度への抵抗を試みました。
身体を用いたインスタレーションと彫刻
身体はパフォーマンスだけでなく、インスタレーションや彫刻においても中心的な要素となり得ます。アーティスト自身の身体の痕跡、身体の一部を模したもの、あるいは身体を取り巻く環境そのものが作品の一部となります。
- レベッカ・ホーンの機械仕掛けの彫刻やインスタレーションは、しばしば人間の身体の拡張や制約を示唆します。彼女の作品における機械的な動きは、人間の身体の動きやジェスチャーを模倣したり、それに介入したりすることで、身体とテクノロジーの関係性を問い直します。
- オルランは、自身の身体を「手術台」と見なし、複数回にわたる整形手術をパフォーマンスとして記録・公開することで、身体規範、美の基準、自己の再構築といったテーマを探求しました。これは、身体を流動的で改造可能なものとして捉える現代的な視点を示唆します。
現象学とパフォーマンス論からの視点
現代アートにおける身体の探求を深掘りする上で、現象学とパフォーマンス論は不可欠な概念的枠組みを提供します。
現象学からの視点
現象学、特にモーリス・メルロ=ポンティの哲学は、身体を単なる客観的な物質や意識の乗り物としてではなく、「世界に開かれた存在」「知覚の主体」として捉えます。彼の言う「生きられた身体(le corps vécu)」は、私たちが世界を経験し、他者と関わるための根源的な基盤です。
- 現代アートにおける身体表現は、しばしばこの「生きられた身体」の経験、すなわち身体を通じた世界の知覚、運動、感情、他者との相互作用を扱います。
- パフォーマンスアートにおける身体の疲労、痛み、緊張といった感覚は、単なる身体の状態ではなく、そのパフォーマンスが展開される時間・空間における「生きられた身体」の経験そのものを観客に伝えます。これは、観客自身の身体的な共感や反響を引き起こす可能性があります。
- ミニマリズムが空間における身体の知覚を重視したように、多くの現代アートは、鑑賞者の「生きられた身体」が作品とどのように関わり、どのような知覚や体験を生み出すかに焦点を当てています。
パフォーマンス論からの視点
パフォーマンス論は、演劇学、社会学、文化人類学など様々な分野に根ざす学際的な領域であり、パフォーマンスを単なる芸術表現だけでなく、社会的な行為、儀式、あるいはアイデンティティ構築のプロセスとして広く捉えます。特にジュディス・バトラーのジェンダー・パフォーマンス論は、性別やジェンダーが生物学的な事実ではなく、反復される身体的・言語的な行為(パフォーマンス)によって構築されると論じ、身体とアイデンティティの関係性に大きな影響を与えました。
- パフォーマンスアートにおける身体は、しばしば社会的な役割、規範、期待に対する問いかけ、あるいは抵抗の場となります。身体的なジェスチャー、姿勢、服装、あるいは他者との関係性は、社会的なパフォーマンスのメタファーとして機能します。
- アーティストは自身の身体を用いて、ジェンダー、セクシュアリティ、人種、階級といった社会的カテゴリーを問い直し、あるいは逸脱することで、アイデンティティの構築プロセスやその不確実性を可視化します。オルランやスター・ラーの作品は、この側面を強く示しています。
- パフォーマンス論は、作品における身体だけでなく、アーティストの制作プロセス、展示の方法、そして鑑賞者の反応といった、アートを取り巻く一連の「行為」や「出来事」にも注目を促します。
技法と思想の交差:「文脈」の形成
現代アートにおける身体の探求は、単に身体を描写したり表現したりすることに留まりません。それは、身体が持つ多層的な意味、すなわち知覚の基盤(現象学)、社会的構築物(パフォーマンス論、社会学)、政治的抑圧の対象、あるいは技術による変容の可能性といった、様々な思想的文脈の中で位置づけられることで深みを増します。
例えば、極限状態の身体を扱うパフォーマンスは、単に痛みに耐える行為ではなく、メルロ=ポンティ的な「生きられた身体」の限界と可能性を問い直すと同時に、社会的な暴力や抑圧に対する身体的な抵抗、あるいはフーコー的な権力による身体の規律化に対する異議申し立てとして読み解くことができます。
また、テクノロジーを用いて身体を変容させる作品は、ポストヒューマニズムの議論や、ドナ・ハラウェイのサイボーグ論と深く結びついています。身体が機械や情報と融合することで、人間の定義そのものが揺るがされる現代において、身体のあり方をめぐる探求は技術批評や生命倫理の側面をも帯びるようになります。
まとめと展望
現代アートにおける身体の探求は、現象学が解き明かす根源的な知覚体験から、パフォーマンス論が分析する社会的構築物としての身体、さらにポストヒューマニズムが提示する未来の身体像まで、幅広い思想的文脈と結びついています。アーティストたちは多様な技法を用いることで、これらの身体観を具体的な作品として提示し、観客の知覚や思考に働きかけます。
現代において、身体は依然としてアイデンティティ、政治、テクノロジー、環境といった様々な問題系が交差する場であり続けています。このため、現代アートにおける身体の探求は今後も続き、新たな技法や思想的視点を取り込みながら、その「文脈」を更新していくと考えられます。作品に現れる身体を理解することは、単にその造形を捉えることだけでなく、作品が問いかける広範な思想的・社会的問題を理解するための重要な鍵となります。